昨日は久しぶりに(といっても2週間ぶりに)紀伊国屋に行ってきた。そこでヒッキーこと宇多田ヒカルの書き下ろした「点」という本を買った。今朝は通勤中にそれを読み始めたんだけど色々と考えさせられた。
まずは翻訳のこと。好きな作品に出会うたびに私は、これは自分が英訳せねば!という、妙なは焦りや所有感に追われる。 ほかの誰でもない、私だけが!でもそれはどう考えたって不可能である。同じ本を同じ風に読む人がいれば、私と同じようにその本を訳したいと思う人は必ず出てくるし、自分よりも訳す暇があり、自分よりは先に英訳が出来上がり、人目がつくところ(例えばブログだの掲示板だの)に載せることだってあるかもしれない。それはしかたのないことだし、それはそれでいいんだ。
100人の翻訳者がいれば100つの違う訳が出来上がる。原作が同じでも訳者の選ぶ言葉や表現やニュアンスが違うだろうし、それによってその英訳が違ってくるから。
だったら私は私なりに訳して、その大勢にある英訳の中から私が使った言葉や表現が一番気に入り、それを選んで読む人がいればいいんだ。
愛情もって訳せば、自分のが一番好きだ、一番しっくりくるんだと言ってくれる人は、必ず出てくるから。
それと、もう一つ考えさせられたのが日本語や英語の違い。先週に宇多田ヒカルがUTADA名義でアメリカ向けのアルバムをだしました。私はファンなのでそのアルバムを買いました。曲自体の感想とは別として、歌詞はちょっとだけがっかりだった。私は宇多田ヒカルの書く詩がとても好きだ。マイフェイブリットの日本語の作詞者のおちまさの次に2を争うにが浜崎あゆみ、そして宇多田ヒカル。彼女の書く詩はとてもユニークでストレートで必ず共鳴できる。彼女は彼女にしか書けない詩書いている。独特なんだ。でも英語の詩は、ちょっと違う気がする。
でも、私は今日、気づいてた。英語の歌詞に日本語のニュアンスなどを求めても無駄なんだ。言葉が違うから表現も違う。さらに、使うフレーズだけではなく、内容も自然にかわってくる。英語でうまく言えないこともあれば日本でうまく言えないこともある。そしてその「うまく言えない」こと事体も話してる言葉によって違う。言葉は文化から生まれてくるもので、違う文化の人が同じようなものを違うように感じたり、取られることだってたくさんある。
歌詞だってそう。日本語の歌詞を英語にすると変に感じてしまうことが多い。(その逆だってそう)伝えたい気持ちが同じでも伝えるために選ぶ表現やフレーズが違うし、元々「歌詞にする内容」の時点から違うと思う。だからたとえ宇多田ヒカルが日本語で書いた歌詞をそのまま英語にしても、しっくりこないだろう。英語の歌詞や日本語の歌詞が別のもの。だったら同じ判断でみてもしかたない。良いか悪いか、そういう問題ではない。別の物でそれぞれの良さがある。
だからこれからは「宇多田ヒカル」と「UTADA」を別のアーチストと考えることにしよう。
まずは翻訳のこと。好きな作品に出会うたびに私は、これは自分が英訳せねば!という、妙なは焦りや所有感に追われる。 ほかの誰でもない、私だけが!でもそれはどう考えたって不可能である。同じ本を同じ風に読む人がいれば、私と同じようにその本を訳したいと思う人は必ず出てくるし、自分よりも訳す暇があり、自分よりは先に英訳が出来上がり、人目がつくところ(例えばブログだの掲示板だの)に載せることだってあるかもしれない。それはしかたのないことだし、それはそれでいいんだ。
100人の翻訳者がいれば100つの違う訳が出来上がる。原作が同じでも訳者の選ぶ言葉や表現やニュアンスが違うだろうし、それによってその英訳が違ってくるから。
だったら私は私なりに訳して、その大勢にある英訳の中から私が使った言葉や表現が一番気に入り、それを選んで読む人がいればいいんだ。
愛情もって訳せば、自分のが一番好きだ、一番しっくりくるんだと言ってくれる人は、必ず出てくるから。
それと、もう一つ考えさせられたのが日本語や英語の違い。先週に宇多田ヒカルがUTADA名義でアメリカ向けのアルバムをだしました。私はファンなのでそのアルバムを買いました。曲自体の感想とは別として、歌詞はちょっとだけがっかりだった。私は宇多田ヒカルの書く詩がとても好きだ。マイフェイブリットの日本語の作詞者のおちまさの次に2を争うにが浜崎あゆみ、そして宇多田ヒカル。彼女の書く詩はとてもユニークでストレートで必ず共鳴できる。彼女は彼女にしか書けない詩書いている。独特なんだ。でも英語の詩は、ちょっと違う気がする。
でも、私は今日、気づいてた。英語の歌詞に日本語のニュアンスなどを求めても無駄なんだ。言葉が違うから表現も違う。さらに、使うフレーズだけではなく、内容も自然にかわってくる。英語でうまく言えないこともあれば日本でうまく言えないこともある。そしてその「うまく言えない」こと事体も話してる言葉によって違う。言葉は文化から生まれてくるもので、違う文化の人が同じようなものを違うように感じたり、取られることだってたくさんある。
歌詞だってそう。日本語の歌詞を英語にすると変に感じてしまうことが多い。(その逆だってそう)伝えたい気持ちが同じでも伝えるために選ぶ表現やフレーズが違うし、元々「歌詞にする内容」の時点から違うと思う。だからたとえ宇多田ヒカルが日本語で書いた歌詞をそのまま英語にしても、しっくりこないだろう。英語の歌詞や日本語の歌詞が別のもの。だったら同じ判断でみてもしかたない。良いか悪いか、そういう問題ではない。別の物でそれぞれの良さがある。
だからこれからは「宇多田ヒカル」と「UTADA」を別のアーチストと考えることにしよう。